はじめに:日本を支える企業の未来は、誰が守るのか
日本の経済を支えているのは、誰もが知る大企業だけではありません。
地方の工場。
独自の技術を持つ製造業。
長年にわたり地域の雇用を支えてきた中小企業。
親から子へ、経営の経験や技術を引き継いできた家族経営の会社。
こうした企業の中には、世界に誇れる技術を持ちながら、株式を証券取引所で売買していない非上場企業が数多く存在します。
今、その非上場株式の相続税評価方法について、抜本的な見直しが検討されています。
2026年4月以降、国税庁の有識者会議で議論が進められ、同年9月の会議では、原則的な評価方式を「残余利益方式」に一本化する方向の案が示されました。
ただし、重要な計算条件は未確定であり、見直しの内容や適用時期が最終決定したわけではありません。企業の収益性や資産構成によって、評価額への影響も異なるとされています。
この問題は、単なる税金の計算方法の話なのでしょうか。
私は、そうは思いません。
なぜなら、非上場株式の評価方法は、企業の事業承継や後継者の納税資金、ひいては雇用や地域経済にも影響を及ぼし得るからです。
日本の企業が努力して成長することと、次の世代へ事業を引き継ぐこと。その両方を実現できる制度になっているのでしょうか。
今回は、この疑問を出発点に、制度見直しの背景と懸念、そして日本の産業基盤を守るために必要な視点を考えます。

第1章:そもそも、何が見直されようとしているのか
最初に、事実関係を整理しておきましょう。
今回の中心的な論点は、非上場株式を自由に売買できるようにする法案ではありません。
相続税や贈与税を計算する際に、非上場株式の価額をどのように評価するかという制度の見直しです。
上場株式には、証券取引所で形成される市場価格があります。
一方、非上場株式には通常、そのような日々の市場価格がありません。そのため、一定の評価方法に基づいて価額を算定します。
国税庁の現行の説明では、会社の規模などに応じて、類似業種比準方式や純資産価額方式などが用いられます。また、一定の株主については、配当還元方式という特例的な評価方法が適用されます。
今回、見直しの背景となったのは、現行制度の評価方法によって、会社の規模などに応じて評価額にかい離が生じる可能性が指摘されたことです。
2024年11月の会計検査院の検査報告を受け、国税庁は2026年4月に有識者会議を設置し、制度の在り方について検討を始めました。
つまり、国側にも制度を見直す理由があります。
評価の公平性を高めることは、税制にとって重要な課題です。
しかし、ここで忘れてはならないことがあります。
評価の公平性を高めることと、事業承継を困難にしないことは、同時に考えなければならない課題なのです。
第2章:「残余利益方式」とは何か
今回の見直し案で注目されているのが、「残余利益方式」です。
これは、企業の純資産を基礎とし、そこに一定の考え方で算定した将来の利益に関する価値を加味して、企業価値を評価する方法です。
国税庁の有識者会議では、現行の会社規模に応じた評価体系を見直し、原則的な評価方式を残余利益方式に一本化する方向性が示されました。
ただし、評価額を左右する重要な計算条件は未確定です。したがって、すべての非上場企業の評価額が一律に上昇すると決まったわけではありません。
それでも、政策として検証すべき問いがあります。
企業が利益を上げる。
技術者を育てる。
設備投資をする。
新しい製品を開発する。
取引先との信頼関係を築き、将来の成長に備える。
こうした企業の努力が評価額に反映される場合、後継者が株式を相続するときの税負担に、どのような影響が生じるのでしょうか。
企業価値が高まること自体は、悪いことではありません。
問題は、企業価値の評価が高まる一方で、後継者が納税に必要な現金を十分に確保できない場合、事業承継にどのような影響が及ぶのかという点です。
この点については、評価方法だけを議論するのではなく、実際の企業を想定した試算や、事業承継税制との関係を含めた検証が必要です。
第3章:株式の価値と、自由に使える現金は違う
ここに、非上場株式の相続税を考えるうえでの重要な問題があります。
株式の評価額が高いことと、相続人が十分な現金を持っていることは、同じではありません。
たとえば、長年経営してきた製造業の会社があるとします。
その会社には、工場、設備、技術、取引先、従業員がいます。
利益を上げていても、その資金の多くは設備投資や運転資金、従業員への給与などに使われているかもしれません。
後継者が会社の株式を相続しても、その株式をすぐに現金へ換えられるとは限りません。
相続税の負担が増えた場合、後継者は自分の資産や金融機関からの借入れなどによって納税資金を確保する必要に迫られる可能性があります。
ただし、実際の負担は、評価額、相続財産の構成、納税猶予などの制度の適用状況によって異なります。
評価額が上昇すれば、必ず会社が存続できなくなるわけではありません。
しかし、納税資金の確保が難しい企業が存在するなら、その影響を制度設計に反映させる必要があります。
課税の公平性を追求するあまり、事業を継続するための資金まで圧迫することにならないか。
この点を、政府は具体的なデータに基づいて検証するべきです。
第4章:日本の中小企業が抱えるリスク
事業承継の問題は、経営者や株主だけの問題ではありません。
中小企業が事業を継続できなくなれば、従業員や取引先、地域経済にも影響が及ぶ可能性があります。
たとえば、次のような企業を考えてみてください。
- 特殊な加工技術を持つ地方の製造業
- 大企業の製品を支える部品メーカー
- 長年の経験が必要な技能を持つ企業
- 地域で雇用を維持している家族経営の会社
こうした企業の価値は、純資産や短期的な利益だけでは捉えきれない場合があります。
長年蓄積された技術や取引先との信頼関係、従業員の技能などは、企業が存続することで初めて十分に活用できるものだからです。
もちろん、事業承継が難しくなった場合でも、第三者への事業譲渡やM&Aによって企業が存続するケースはあります。
そのため、税負担が増えれば必ず廃業する、あるいは必ず海外資本に買収されるという説明は正確ではありません。
それでも、制度変更によって事業承継の選択肢が狭まる企業が出てくる可能性は、慎重に検証する必要があります。
企業の存続が難しくなれば、経営者だけでなく、従業員の雇用や地域の供給網にも影響が及ぶおそれがあるからです。
日本の産業基盤を守るためには、企業が成長する仕組みだけでなく、次の世代へ事業を引き継げる仕組みも必要です。
第5章:海外資本への売却は増えるのか
ここで、もう一つの論点を考えます。
後継者が見つからない企業や、資金面で事業承継が難しい企業では、第三者への売却が選択肢になることがあります。
その買い手は、国内企業に限られません。海外企業や海外ファンドが買い手になる可能性もあります。
海外資本による買収が、すべて日本にとって悪いわけではありません。
資金や技術、販売網が提供されることで、企業の成長や雇用の維持につながるケースもあります。
一方、買収後の経営方針によっては、国内の生産拠点や雇用が縮小する可能性もあります。
また、企業が保有する技術や知的財産、重要な供給能力については、売却後にどのように扱われるのかを考えることも重要です。
ただし、現時点で、今回の相続税評価の見直しによって海外資本への売却がどの程度増えるのかを示す確かなデータは確認できていません。
そのため、「この見直しによって日本企業が海外資本に次々と買収される」と断定することはできません。
ここで求められるのは、感情的な排外主義ではなく、具体的なリスク評価です。
政府は、制度変更が事業承継やM&Aの選択にどのような影響を及ぼす可能性があるのか、必要に応じてデータを示すべきです。
日本の技術や雇用を守りながら、企業が円滑に次の世代へ引き継がれる制度になっているのか。
この点こそ、私たちが注目すべき問題です。
第6章:「日本弱体化装置」にならないか
ここで、今回の記事の核心に踏み込みます。
私は、非上場株式の相続税評価の見直しが、日本の産業基盤を弱める結果にならないかという視点から、慎重に検証する必要があると考えます。
仮に、制度変更によって一部の企業で評価額が上昇し、後継者の納税資金の確保が難しくなったとします。
その結果、事業承継が難しくなり、企業の成長や雇用、技術継承に悪影響が及ぶのであれば、それは税収だけでは測れない社会的な損失につながる可能性があります。
しかし、ここで重要な区別があります。
制度の副作用を懸念することと、政策担当者が日本を弱体化させる意図を持っていると断定することは、まったく別です。
現時点で、今回の見直しが日本を弱体化させる目的で進められていると判断できる根拠は確認できていません。
だからこそ、批判の対象を明確にする必要があります。
問うべきなのは、誰かの意図を決めつけることではありません。
制度が実際にどのような結果をもたらすのか。
企業の成長と事業承継を両立できるのか。
日本の雇用や技術継承にどのような影響が及ぶのか。
その検証が十分に行われているのか。
こうした点を、具体的な根拠に基づいて問い続けることが大切です。
「日本弱体化装置」という言葉を、単なるレッテルで終わらせてはいけません。日本の産業基盤を弱める制度にならないかを、事実とデータによって検証するための問いにするべきです。
第7章:政府に求めたい5つのこと
今回の見直しを考えるうえで、少なくとも次の5点について、政府には明確な説明を求めたいと考えます。
1.評価額と納税負担は、どの程度変化するのか
企業の規模、業種、収益性、資産構成などを考慮し、さまざまなケースの試算を公表する必要があります。
一部のモデルケースだけではなく、地域の中小企業や小規模企業への影響も示すべきです。
2.事業承継を妨げない制度設計になっているのか
株式評価の変更だけでなく、事業承継税制との関係を一体的に検討する必要があります。
納税猶予などの制度が、必要な企業にとって利用しやすいものになっているかも重要です。
3.不適切な節税への対策と、健全な企業への影響を区別しているのか
評価方法の違いによって不合理な格差が生じているなら、見直しには合理性があります。
しかし、問題のある節税手法への対策と、広範囲の企業に影響する制度変更は、分けて考えるべきです。
4.雇用や技術継承への影響を検証しているのか
事業承継が難しくなった場合、従業員や取引先、地域経済にどのような影響が及ぶ可能性があるのか。
税負担だけでなく、雇用や企業存続への影響も政策判断に含めるべきです。
5.制度変更の根拠と決定過程は透明なのか
評価方法の選択理由、試算の前提、想定される副作用、関係者からの意見への対応。
これらを公開し、国民や企業が理解できるように説明する必要があります。
日本の将来に関わる制度だからこそ、十分な議論と透明性が不可欠です。
第8章:課税の公平性と、日本の産業基盤は両立できる
ここまで、今回の見直しに対する懸念を述べてきました。
しかし、非上場株式の評価制度を見直すこと自体が、すべて悪いわけではありません。
現行制度に不合理な評価差があるなら、適正化を検討することには意味があります。
問題は、どのように見直すかです。
評価方法を変更するのであれば、企業の実態を踏まえた試算を行い、事業承継への影響を検証し、必要に応じて負担を調整する仕組みを検討する必要があります。
経済同友会も2026年10月14日の意見で、非上場株式の適正な評価の必要性を認めつつ、中堅・中小企業の成長、円滑な事業承継、地域経済への影響に懸念を示し、政府・与党に包括的な議論を求めています。
これは、単なる税負担の軽減を求める話ではありません。
課税の公平性を追求する一方で、企業が事業を継続し、雇用を維持し、技術を次世代へ引き継ぐ条件を守れるかという問題です。
公平な課税と、企業の存続。この2つを対立させるのではなく、両立させる制度を考えるべきです。
おわりに:日本の未来を、税収だけで判断してはいけない
日本の中小企業は、単なる株式や資産の集合体ではありません。
そこには、創業者が築いてきた歴史があります。
従業員が積み重ねてきた経験があります。
地域の取引先との信頼があります。
そして、次の世代へ引き継ぐべき技術があります。
もちろん、企業だからといって、どのような税負担も免れるべきだという話ではありません。
不公平な制度や不適切な節税は、適切に見直されるべきです。
しかし、その見直しによって、健全な企業の事業承継が難しくなり、雇用や技術継承に悪影響が及ぶなら、それは避けなければなりません。
私は、今回の非上場株式の相続税評価見直しが、日本の産業基盤を弱める結果にならないか、強い関心を持っています。
「日本弱体化装置」という言葉は、制度の副作用に警鐘を鳴らすための問題提起です。
その言葉を使う以上、私たち自身も、事実と推測を区別しなければなりません。
大切なのは、誰かを敵と決めつけることではありません。
日本にとって本当に必要な制度とは何かを、具体的な根拠をもとに考えることです。
日本の企業が成長し、技術が受け継がれ、働く人々の生活が守られる。
そのような制度になっているのか。
日本の産業基盤を守るために、今こそ私たちは問い続ける必要があるのではないでしょうか。
本日は以上です。
最後までお読みいただき誠にありがとうございました。
参考資料
- 国税庁「取引相場のない株式の評価」
https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/hyoka/4638.htm - PwC Japan「非上場株式の評価の見直し(続報)国税庁が示した見直し案と関係機関の意見」(2026年10月15日)
https://www.pwc.com/jp/ja/knowledge/news/tax-estate-taxation/eth-20261015.html - 経済同友会「『取引相場のない株式』の評価見直しに関する意見」(2026年10月14日)
https://www.doyukai.or.jp/policyproposals/2026/261014.html - 国税庁「取引相場のない株式の評価に関する有識者会議」資料
https://www.nta.go.jp/about/council/nai-hyoka/index.htm
※本記事は、2026年10月27日時点で確認できる公開資料に基づく問題提起です。見直し案の内容、評価水準、適用時期は検討段階であり、今後変更される可能性があります。